ゲーム

ゲームとはなんだろうか。

私が小さいときにはもうゲームと言ったらテレビゲームのことだった。

まあ携帯ゲーム機もあったけど。

まあ四捨五入したら全部コンピュータゲームのようなものである。

この記事ではコンピュータゲームをゲームと呼ぶことにしよう。

私の世代の人間ならばゲームと生活は切っても切り離せない関係にあっただろう。

娯楽であり、暇つぶしであり、友人とのコミュニケーションツールであった。

これだけ生活に密接していたゲームだが、密接しすぎたがゆえにもう私の求めたゲームは少なくなってきているのかもしれない。

 

私の中でゲームというのは娯楽である。

私の求めるゲームも娯楽である。

そして暇つぶしである。

しかしこれは断じて友人とのコミュニケーションツールではない。

更に言うならスポーツではない。

 

小学生の頃、同級生はスポーツをしに外に遊びに行くことが多かった。

しかし、私はこれが嫌であった。

運動神経が死ぬほどないからというのも有るが、それ以上に失敗すると怒られるからだ。

なぜ学校が終わって全人類の敵「先生」から逃れられたのに、今度は同級生から怒られなければならないのだろう。

全く馬鹿な話である。

というわけで私はゲームをすることにした。

ゲームをしているとそれはそれでゲームが好きな人間が寄ってくる。

結果スポーツよりもゲームのほうが好きな友人たちと集まってゲームをするのだ。

ゲームをしていると親や先生から「外で遊べ!」「そんなくだらないことをする暇があったら勉強しろ!」

と罵られる。

だったら野球やってるやつとかサッカーやってるやつとかバスケをやってるやつにも言え。

とは言うがまああっちはあっちで楽しんでいるのならばいいだろう。

スポーツという大義名分を背負って我々のように楽しんでくれ。

我々は反模範的と指を指され続けても楽しいからゲームをするのだ。

 

こういう経緯でゲームで友人と遊ぶことはあっても、友人と遊ぶためにゲームを始めたわけではない。

まあ友人と「このゲームで遊ばない?」と言われてPSPのモンハン買ったりはあったけど。

モンハンもそんなに好きではないので例えに出さないほうが良かった気がしてきた(白目)

そういうわけでゲームというのはあくまで娯楽であり、嗜好品であり、堕落の象徴なのである。

 

しかしそうではなくなってきた。

ゲームというものが人権を得始めてきたのである。

これはゲームを好きな私としても嬉しいこと…ではないのである。

むしろ厄介なことだと言っても過言ではない。

権利を得たものはどんどんその権利に縛られてくる。

わかりやすく言おう、スポーツに近づくのだ。

私が忌み嫌い避けてきたスポーツにだ。

 

スポーツに近づくとどうなるか。

真剣に時間をかける人間が増えてくるのだ。

ゲームという金にもならない楽しいだけのくだらないお遊びに時間を掛けるなんてふざけた話である。

ふざけた話であったのだ。

それでも時間を掛ける人間はバカだった。

ゲームが好きなバカだったのだ。

しかしだ、今はそうは言えないのである。

いや、一般的には未だそうなのかもしれない。

しかし我々のようなTwitterでうんちぶりぶりしてる人間の中ではそうではなくなってきたのだ。

スポーツに近くなったゲームに時間を掛け、巧くなることに心理的な正当性が生まれ始めている。

まあそれだけならまだどうということはない。

問題は「下手な人間が努力せず遊ぶことを叩くことに正当性が生まれ始めている」ことだ。

 

ゲームの上手い下手など自慢する材料になるくらいで良かったのに、下手であることを叩く正当性が生まれてしまってはまずいことになってくる。

ゲームが私が忌み嫌ったスポーツと何ら変わらない醜悪なものになるのだ。

できる人間が「指導」だといい嘲りながら罵倒を繰り返すことがまかり通ってしまう。

 

「俺は嫌がらせで言ってるんじゃない、お前がうまくなってほしいから言っているんだ」

「お前のために言ってやっているんだ」

 

最悪である。

結局変わらないのである。

同じ歴史を繰り返すのである。

結局我々が拠り所としたゲームはまたスポーツによって蹂躙されるのだ。

同じ「ゲームが好きな人間」だと騙る詐欺師に。

地獄への道がコンピュータゲームにも開かれるのだ。

入り口がゲームだからゲームに入ったはずのにスポーツへと失墜させた者たちによってだ。

 

ゲームが堕落の象徴であるべきだとは言わない。

ゲームだから下手でも叩くなというわけでもない。

これはただ私が好きであったものがスポーツへと堕ちてしまったことへの愚痴である。

時代遅れで過去ばかり見ている私の戯言である。

スポーツが嫌いで嫌いで仕方がない私のわがままである。

 

余裕があるから遊ぶ余地があり、発展の余地があり、好いていたのだ。

スポーツとしてゲームを遊ぶのも確かに1つの発展の形だろう。

しかし正解があり、技術・才能・技術が正義となり、下手な人間が悪となるような形を私は是とできない。

 

このような文化はこれから先、eスポーツとしてのますますの発展をお祈りするのでゲームから離れてくれ。

 

 

とりあえず未だカードゲーム以外はスポーツにおそらく発展していないボードゲームで遊んでこよう。

ボードゲームにも正しさを持ち込みだす人間が居たらまた何か探すしよう。